娘は読書が好きです。しかし、読書感想文は好きでないと言います。
課題として出てくると、とても嫌そうですしお決まりの文章でうすーく書いてしまいます。
本来、小学校低学年の子どもが大人も唸るような感想文を書けることはないと思っています。
語彙、組み合わせ、比喩、心情描写、文字数
これらを駆使して一つの作品として仕上げるのに、どれだけ高度なスキルが必要か。
なので集団塾の課題で表彰されている素晴らしい感想文を見かけると、うさん臭さを感じます。
中学受験の熱気に負けず過熱している親に向かって、
こんな素晴らしいお子さんも居るのです!塾に通えば力がつきます!
みたいな宣伝に見えて。親同士のマウント合戦というか、不安を煽るプロパガンダというか。
テストではないので、子どもらしい間違いや足りない表現、それこそ素の感想だと思います。
出来栄えに関しては最初から良いはずはないので、まずは書くことが大切です。
書いただけで花マル!と私は思っています。
そしてきっと多くの子どもに当てはまると思うのですが、読み返し(推敲)をしません。
これが重要です。私の脳に「推敲」という名詞が刻み込まれたのは中学生の時です。
よく覚えています。それまで「書き終わったら読み返す」なんていう発想がなかったので。
子どもでした。書いたら終わり!達成!なんですよ。もう一度戻るなんてありえない。
それが「山登りや徒競走と違い何度か戻って初めて真のゴールにたどり着く事象がある」
と初めて知ったのですから。従来なかったパラダイムとの出会いでした。
そりゃそうですよ。レゴは組み立てたら終わり!ゲームはクリアしたら終わり!
マンガだってテレビだって、「一度目に読んだ・観た時と二度目以降で(自分側でなく)
作品の内容やキャスト、セリフが変わる」なんてことはないじゃないですか。
作文用紙の最後がゴールでない。衝撃的でした。倒したラスボスが真のラスボスでないなんて。
そして、読み返したら自分の文章がきれいに整っていく、過不足がわかってくる。
その感動が記憶に残っています。
(そういう意味ではブログは甘えがあって推敲不足から目をそらしてしまっていますが・・・)
間違ってるかもしれませんが、子どもなんて概ね「書いた=終わり!」って思ってますよ。
だから大人とはかみ合わない。異次元級の差です。子どもには「意味わかんない!」はずです。
読んだら読み直す。もし小学生で自らここまでできれば、ステージが変わります。
少なくとも「書きなさい!」「おかしいよ!」といった指導は必要なくなり、
本来の学習に役立つであろう、語彙、表現、言葉と文で読み手を引き込むテクニック、
といったスキルの指導に重心が移せるからです。
子どもにとって、(好きでもないものを)書くこと、ましてやそれを読み返すことなど
時間の無駄!
苦痛でしかない!
と感じるものでしょう。なので
書いたら花マル(≠書けたら花マル)!
と思っています。
少しでも書くハードルを下げるため、娘にも私にも「今なら取り組める」というタイミングがあれば、
インタビューチックに本の内容や本人の印象を、ありのままに話してもらいます。
優等生的な、あるいは説明的な内容でなくて良いことにしています。
アレンジはテクニックでどうとでもなるからです。
「パパも読んでみなよ」と言ってくるときは割りと楽です。その本の話をしたそうだからです。
「つまらなかった」「私の感覚と違う」という時も掘り下げやすいです。
「読んだ。話はわかった」という時が、一番大変です。内容は引き出せるけど感情がありません。
そういう本は本来、その子にとってずれた課題図書なのだと思います。
つまらない人の話が声でなく音として記録される(なのでオウム返しはできるけど感想は出ない)、
まさに大人同士のあの瞬間です。その時もし相手から
どう思う?ね、ね、そう思わないか?だろ?
みたいに同意を求められたら、どうやってその場を立ち去るかを考え始めることでしょう。
娘が関心を持たなかった本を読んだ後、聞き取りするこちらもつらくなります。
残念ながら、
いかに心にないことを文章化するか?
のテクニックを教えるしかありません。内容は覚えているので、
何で主人公はそういう性格なんだろうね
本当にこんな場所があったらどうだろうね
とか、記述問題の答えをつなげていくような作業になります。気持ちや印象を入れるのは諦めて。
もう少し人生経験が厚くなれば、自分とは違うけど記憶にあるリアルな知っている人を使い、
あの人だったらこう思うかも
という「他人の気持ちを借りてくる=自分ではない誰かになりきるテクニック」で、
ゼロから感情を創ることもできるようになるでしょう。俳優とかはそうなんじゃないかなと思います。
感情が湧いてこない本を読んだときに「何も感じないの?」と聞けば、嫌な気持ちになります。
子どもにとって、自分の心にない感情をあるかのように捏造するのは、
気持ち良くないし嘘をついているようにもなると思います。
ですので、しばらくは
避けられるなら合わない本での感想文は書かない、掘り下げない
他人になりきって感情を創るのはまだまだ早い
と考えています。インタビューする側が工夫して、感想文に仕上げられそうな要素を拾い上げ、
文章に構成していくサポートをしています。
我が家に
という本がありましたが、”うちの子”に”私”が教えるという構図にははまりませんでした。
やはり子ども目線でないと、読書感想文自体をやる意味がないんじゃないかと思いました。
(読書感想文を通じて何が学べる?と考えずにやっても、ノルマに見えて嫌いになるだけ、
読書感想文は学習手段であって目的ではないのではないか?ということです)