中学受験では、
私国立と公立(受験しない公立)のどちらが良いか?
という話が時々出てきます。その時に言われることの一つに
私立は均質な学力、家庭環境の子どもが集まるので多様性がなく、社会の実情と合わない
とか、
公立は地域の多様な子どもが集まり社会の縮図なので、社会性が育ちやすい
といった話があると思います。
中高一貫校と比べれば、そうなんじゃないかなぁ🤔
と私は感じます。但し、
それと善し悪しはまったく別の話
と思っています。そもそも中学受験は首都圏と近畿、および都市部の話なので、
日本全体で見ればマイノリティの世界だろう
と思っています。なのにメジャーな話題となるのは、日本社会の変質が背景にあること、
もはや実社会の多様性が衰えつつあるので、公立中で体験できる多様性というものが
”社会を学べる”という話とマッチしていないから
ではないかと思います(個人の印象です)。
大学進学率が高まったことで、
中学受験しようとしまいと大学が最終学歴の多数派になり、社会人も均質化してきた
と考えられるからです。進路の多様性が減っていると言い換えても良いかもしれません。
統計データを引っ張るまでもなく、昭和の頃と比べて大学進学率は大幅に上がったでしょう。
子どもは減ったのに大学は増えたので、大学卒は特別なものでなくなりました。
社会も、法改正や規制緩和により、小規模店舗は減り大規模店舗が増えたりしました。
もはやどこの地方に行ってもライフスタイルは
スーパーマーケットやドラッグストア、コンビニで買い物し、
洋服は大衆向け全国チェーンで揃ってしまう(出来もよいし、全国共通)
外食も、ブランドは地域性があったとしても、フランチャイズ型が多数
というスタイルが浸透しています。ネット通販も定着しました。
ポイントは進路の均質化(とりあえず大卒)、進路の先にある就職の均質化(社会構造)です。
子どもの数が相対的に多く、その割りに大学進学が一般的でなかった頃、
見方を変えれば子どもの数に対する教育費が決して多く割けなかった頃、
都市部には都市部の進学先や就職先があったように、都市部以外にも就職先がありました。
つまり社会に多様性があったと考えられます。
多様な生き方が認められていたと考えても良いと思います。
しかし地方の都市化(都市部と同じライフスタイル)が浸透することによって、
子どもたちの出口となる社会も均質化していきました。
今やテレビの中で地方の特色を見ることはあっても、たいていの地方は、
どこかで見たようなショッピングモール
どこかで見たようなコンビニ、スーパー、ドラッグストア、ファミレス
どこかで見たような新興住宅地
が既視感を伴って再現されていて、日本全体が均質化されていっていると感じます。
他人と同じものをみんなが望むし、そのニーズに応えるために社会が均質化に向かいます。
社会は多様性と別の方に向かっているし、大人も”自分は”均質化の中に居たい。
元々島国で地域性以外に多様性を担保するものが少なかった日本にとって、
地方も都市も同じものを目指していけば、社会は多様化せず均質化すると思います。
なので、
いくら公立で多様な子ども(それすらも、何を持って多様というのか曖昧ですが)
と接することができたとしても、社会が多様でないのにどう役に立つといえるのか?
という疑問には答えきれていないのではないか?🤔
と私は思います。
グローバルな時代、多様性の時代と言われていますが、
そのような「本当の異文化交流」ともいえるような多様性が、
公立に進学することで得られる(と考えられている)社会性・多様性と似ている
といえるでしょうか?
むしろ私国立か公立かに関係なく、
均質な教育機会と公平性が最優先で習熟度別学級も少なく(表立ってできず)、
区別と差別の違いすらタブー視せざるを得ない(親からクレームが~)という学校教育
で、どんな多様性が学べると期待しているのだろう?と思います。
多様性のベースは個の違いをはっきりと自他ともに認識することです。
これは日本ではなかなか難しいことだと感じます。
「違いがあっても建前上は同じでなければならない」
「違いは即、差別に直結し、上下・優劣をつけることになる」
それすらも、良い悪いではなく日本的文化という個性として認め、
他者にも個性を認めさせる(=他者を個性として認めることとセット)
という前提がなければ、多様性を受け容れる社会とは言い難いと感じます。
多様性を受け容れることが真理として正しい、ということではありません。
日本人が多様性を好意的に感じる社会を望まないのであれば、多様性を目指す必要はありません。
元々が農耕文化で村社会(平等が大事)な日本は、多様性のあり方も難しいかもしれません。
収穫も平等、苦労や損害も平等。さもなくば争いが起きてしまう。
「和を以て貴しとなす」が第一条に出てくるのも
多様性の大切さを訴えた理念
を掲げているのではなく、
まずは争いをやめましょう
です。意見の違いがあれば激しい議論(議論という形の相互協力)を経て真理に至ろう、
という欧米的な発想とは違います。意見の衝突と喧嘩・争いの区別が難しいということです。
どちらが良いということはありません。人間から感情を切り離すのは不自然ですし。
ほぼ単一民族国家で均質性と相性が良いのは自然だと思います。排他的でもあります。
したがって公立にいけば多様性が学べるというほどに、
私国立と公立で顕著な多様性の違いは、日本に居ても感じられないだろう
と私は思います。それが欲しければインターナショナルスクールしかありません。
(そこすらも、特定層の子女で埋め尽くされていたらきっと均質ですが)
一方、多民族国家では多様性は国家成立の要となるため、多様性を受け容れざるを得ません。
したがって
均質=みんな同じが安心
という生き方が多数派の日本で子どもにだけ多様性を求めても
大人の矛盾は子どもにばれてしまう
と思います。子どもにもなるべくわかりやすい言葉で伝えています😢
世の中を変えてもいいけど自分を変える(適応する)方が早いよ、ある種の知恵だよ、と。
公立だと多様性や社会性が育つという話と同時に感じるのは、
違いを受け容れることができる人間になれる
社会が多様であることに驚かない
様々なタイプの人とうまくやっていける
という期待です。ですがこれは
他者の尊重、尊敬、思いやり
人間にとっての尊厳の大切さ(自分・他人)
偏見を持たずに柔軟な心で学ぶことの大切さ
を求めているように感じます。そのような目標が、
公立に進めば育まれる
私国立に進めば機会を失う
と考えるのは、論理がすっきりしていないと私は思います。
私は、
どの学校に進んだところで、そういう教育はしてなさそう。
進学校ではやはり勉強が大事だし、
公立では「いかに公平・平等であるか」が優先される(その割りに透明性は微妙)。
宗教系など、教育方針で明確に多様性や社会性、受容性を求めている学校くらいしか
そのような情操教育を期待するのは、そもそも無理があるんじゃないか?🤔
と思っています。
ですので学校には進学指導や特色ある教育(留学、イベント、時間をかけた教養など)
は求めたいし期待したいと思いますが、多様性や社会性は家庭で伝えたいと思っています。