これまでに何度も国語力に関する記事を書いてきましたが、
国語力を考える上で、もう一つ触れておきたいことがあります。
それは
ハイコンテクスト文化とローコンテクスト文化
のことです。
何それ?と思われた方に簡単そうなリンクをつけておきます。
ハイコンテクスト代表に日本があります。
一方のローコンテクスト代表にドイツがあります。
やや中間にイギリス・フランス・アメリカがあります。
仕事柄そのすべての国の人々と頻繁に接するのですが、
この分類はかなり正しい
です。彼らとこの話題になると結構笑い🤣が出ます。
ほんとこれ、日本人メンドクセー
まさにそう、ドイツ人ストレート過ぎー
中間の人たちは、ルーツによりけりなのでハイ・ローどちらよりも居ます。
言外のうちにある意図・行間がある
これは外国人にとって本当にしんどいことです。
ですが、これは母語である日本語を扱う日本人にとっても、実は大変でもあります。
状況次第で良い意味にも悪い意味にもなる言葉
曖昧な言い方に留めることで、後から解釈を変更できるようにする文章
コミュニティ内では話さなくても通じるシンプルな単語や非言語コミュニケーション
枚挙に暇がないですね。
日本人を親に持ち日本で育つ前提で考えると、土着の日本人は生まれながらにして
ハイコンテクストサバイバー
として無意識に生きています。先ほどリンクした記事にもありましたが、
- 曖昧な表現を好む
- 多く話さない
- 論理的飛躍が許される
が何を意味するか?
中学受験の国語を考える際に、大人も子どもも
日本人なのに日本語のジレンマに引っ掛けられて、国語で苦労する
という現象が起きるということです(個人の見解、仮説です)。
- 曖昧な表現を好む=言葉の解釈に広がりを持たせる
- 多く話さない=上の句だけ、特定のフレーズだけで、「あとは察しなさい」
- 論理的飛躍が許される=論理がなくても、流れや雰囲気でNGがOKになる
こうやって日本語を使ってきて、日本文化を継承してきた私たちは、
国語=日本語だから、普段のように接していい
と自然に考えます。ところが中学受験の国語は
一通りの答えに導かれる論理的な問題
なので、曖昧に言葉や語彙を覚えていたり、日常会話で許される論理的飛躍をよしとすると、
本文が読めなくなったり、記述で減点された意味が理解できない
という沼にはまります。
国語が苦手、意味がわからない(僕は・私はこんなに上手に読み書きできるのに)
というやつです。
ハイコンテクストの弊害といえば弊害なのですが、実は
ハイコンテクストだから言語体系はあやふやで良い
とは、誰も言ってないんですよね。そんなだったら逆に、
日本語はあやふやで未熟で、言語体系として完成・洗練されていない
ってことになるじゃないですか✋
日本はハイコンテクスト文化だけど、言葉や語彙は厳密に定義されている
というのが正しいと思います。
コミュニケーションの特性として、
曖昧でもいいんだよ~😊
という文化であるだけです。
そういう意味では、ハイコンテクスト文化の特徴といわれている
論理的飛躍が許される
が作用しているのかもしれません。
ハイコンテクスト文化だから言葉や表現の定義も曖昧でいいんだよ~
という、”本来は間違っているはず”の論理的飛躍です。
なので、学問としての「国語」ではバツになる、というのが、盲点であり罠ですね。
国語という科目を「日本語だから」という理由で深く考えようとせず、
「親だし大人だから自分は既に国語をよく知っている」「入試の経験もある」
と思ったら、科目としての国語を知らないことになる😮
子どもに国語を教える上では、自分への戒めも含めて注意していこうと思います😅
ちなみに私は日本語+ハイコンテクスト、大好きです😍(面倒もあるけどね)
すべてを語らなくても通じるスピード感
阿吽の呼吸による言葉以上の意思疎通の深み、そして絆の体感
論理飛躍による自由な発想と表現
書いてて思いましたが、論理的でない=いわゆる”理系”ではない文化ですね😮
土着の日本人としては、理系的ってのは相性が良くないのかもしれませんね~😓