今日たまたまダイヤモンドオンラインの記事を読んでいたら、
進学塾VAMOS代表の富永雄輔氏の書籍宣伝記事がありました。
〇〇の学力の伸ばし方シリーズの紹介記事です。
私も「女の子の学力の伸ばし方」は購入して読みましたが、半分くらい役立ちそうでした。
マニュアル本の類は参考知識や考えるきっかけに過ぎないと思っているので、
半分も役に立ちそうなら十分と考えています。
そもそも、
親子のタイプと組み合わせは無数にあって唯一の答えは存在しないので、
本の内容は当てはまらない部分も出てくるし、抽象的になっている
という前提があります。なので半分程度でいいよね、と。
でも「男の子の~」と「女の子の~」がよく売れたせいか、今度は
一人っ子の学力の伸ばし方
という本が発売されました。タイヤモンド社の編集部の思惑を感じます(邪推)。
今日はその本の紹介記事を私が見たという話なのですが、その記事のタイトルが
「マウンティング癖がある子ども」 親の行動に1つの共通点
😱・・・!
流行り言葉という感じです。昔から普通に、特に子どもは
おれ(あたし)の方がすごい(自己顕示、承認欲求)
を遠慮なく出すものだと思います。本人のことだけでなくても
うちの家族は~
友達が~
知り合いが~
テレビで見た人を知ってる~(←もはや自分の知り合いでも何でもない🤣)
と、
とにかくオレ(アタシ)の方がすごい・知ってる
という会話がありふれているんじゃないかなぁ~と思います。
まぁ記事はこちらなのですが、
1ページ目と2ページ目のつながりがまったくない!😮
1ページ目に出てくる
マウンティングやら女の子の競争疲れやら(それすら多数派と思わない)
も、2ページ目の
ひとりっ子は「非常に可能性に満ちた存在」
の話とまったく関係がありません。
釣り記事とまでは言いませんが、提灯記事として、提灯を釣ってる感があります。
自社書籍を自社ページで扱うので何ら問題ないのですが、記事の作り方が何でもありすぎで、
マウンティングが横行しているように言うのはさすがに煽り過ぎじゃない?
と思った次第でした。
これじゃ良い書籍だとしても、提灯記事が足を引っ張ってやしないかい?
と。
斜めに読んでいたのですが、そこからのリンクに別の記事がありました。
こちらも
親が過干渉だから子がこうなる
という筋書きで本の紹介記事になっていますが、半分くらい「そうかもね」という感じでした。
ただ二つの記事を続けて読んだために、ひとつ思い出したことがありました。
マウンティングというか、
ペーパーテストの結果や順位、偏差値や出身校でしか自分の価値に自信が持てない
自分がやりたい気持ちや好きな気持ちを、他人の目が気になって信じきれない
といった事例は割りとあるかもねと思いました。
他人と比べることでしかほめられない
他人に先んじることでしか認められない
そういうことの積み重ねから逃れられなくなると、
自分で何かを決める機会・自分の価値を自分で考える機会
から遠ざかっていくことになり、他の生き方ができなくなるのかなと思いました。
人間は集団社会なのでヒエラルキーに組み込まれたり、
個の価値観よりも社会規範や社会的に認められる価値が優先されることはあります。
しかし
社会を優先しすぎればシステムに組み込まれるための最適化が正解
となってしまいます。
システムが永続的で社会が不変ならば、没個性に不安を感じる必要はないでしょう。
しかし時代の変化でシステムが通用しなくなった時、変化に適応するのは困難です。
個人の生活でも「今の暮らし」が変化した時に、うろたえるしかできなくなるかもしれません。
ダイヤモンド社の提灯記事を読みながら、そんなことを考えました。