常々思うことに
「競争は結果がすべて」というのは極端だよなぁ
ということがあります。
あつものに懲りてなますを吹く
ということわざがありますが、どうも教育は極端な傾向に陥りやすい気がします。
近年までは
過当競争に懲りて勝ち負けを決めない教育
がもてはやされたのに、最近また
勝ち負けを決めなければダメだ
という考え方を見聞きすることが増えた気がします。
競争には勝ち負けがつきますが、
勝ち負けがすべてなんだっけ?
という疑問が残ります。結果がすべてという考え方には、
勝てばいいんだ
というロジックが見えます。
勝てば何でもいいんだっけ?
何かの勝負で永遠に勝ち続けることってできるんだっけ?
と思わずにはいられません。
中学受験に置き換えると
テストの成績さえ良ければ、
偏差値の高い学校に合格すれば、
結果オーライになるのだろうか?🤔
と考えられます。
子どもは、成長や努力をほめられたら自己研鑽に意識が向くかもしれませんが、
結果だけを褒めたり責めたりしたら、自分の努力に意識が向かわない気がします。
もし中学受験を通じて、努力の大切さや学びの意識が実感できれば、
進学した後も
あの時やれたからきっとまた大丈夫
と思えるかもしれません。たとえ思い通りの結果でなくてもです。
一方、結果がすべてというスタンスで受験に挑めば、
中学受験が終わった後は目標を失うかもしれません。
競争して成長するからこそ競争は良い側面があるのであって、
結果だけに囚われたら
まるで得るものがなかった
という気持ちになるかもしれません。
中学受験は競争ですが、本当に得るものはプロセスな気がします。
また、難しいところではありますが
受験自体は、結果的に他人と成績を競争しているけど、
学習の目的は他人との競争でない
というジレンマを感じます。
子どもにとって
中学受験の目的は他の子どもとの競争なんだ
と思わせてしまうことは、子育てのリスクになると思っています。
大人になってからも結果的に競争は続くのですが、
「構図」は競争でも、生活や仕事の目的は競争でないこと
を理解しないと、社会性が身につかないと思うからです。
これは、極端な見方をすれば
自他を尊重し助け合う「人間性の競争」で不利になる
と考えられます。人生や社会を虚しいものに思うかもしれません。
様々な競争に勝ったはずなのに、幸福感では負けているとしか思えない
私は、そう思う人が少ない社会の方が良さそうだし、子どもたちが
自分は幸せだ
と思える人間に育ってほしいと思っています。
仮に成績が伸びず不合格になったとしても、それは
その学校の授業についていく学力に届かなかった
と思えた方が、その後の学習目的は好ましいものになる気がします。
いくら子どもに「受験の目的は競争じゃないよ」といっても、
偏差値や順位に対する親のリアクションを見れば、
子どもは敏感に察すると思います。
それに、よく聞くように思いますが、
勉強が嫌なのは、あるいは親と勉強するのが嫌なのは
親に叱られるから
と子どもが思っているなら、
親が何に対して一喜一憂しているか
を見れば、子どもは
常に競争させられて、そして他人に勝つことを求められている
勝つとすごく喜ぶんだ
と考えると思います。この構図や生活が子どもの人格に影響しないとは思えません。
だからこそ、うまくいってない時の叱咤激励が
他の子どもと比べられている
と思えてしまうのでしょう。
褒めても叱ってもとにかく親が嫌
というか🤔
中学受験への肯定意見と否定意見が出るのも、この辺に一因があると思います。
私は中学受験も子育ての糧のひとつであってほしいと思っているので、
学習は自分を成長させるものであり、
さらに学ばせてくれる学校に行くためだよ
というスタンスを崩さないように自戒しています。
子どもは自我の芽生えと自他の区別・認知が出てきて、
これからますます多感な時期を迎えます。なので
競争して他人と比べさせられている
と思いやすいかもしれません。
競争は結果的な構図としてあるし、良い側面もあるけど、
その先にもっと大切な目標や、社会性もちゃんと教えたい。
娘には、中学受験を通して競争に慣れると同時に、
自分ならではの努力の仕方
も見つけてほしいと思っています。
中学受験はつい勝ち負けの気持ちが生まれやすいものと思いますが、
少しでも努力の方に目が向くよう、
親も気をつけなくちゃいけないよね😅
と、これからもしばしば振り返ろうと思います👋